スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

8月, 2016の投稿を表示しています

思い出話9 大学院生活開始・新たな船出・そして夢への挫折

大学卒業後は、そのまま大学院に進学した。 研究テーマが反応解析なのだが、内容が2年でやるには無茶すぎる。 最低でも結果を出すには、5年は必要だろう。 主生成物を解析するのは容易だ。しかし、副生成物を解析となると、ほかに成分が存在しないことを証明する作業が入ってくる。 これは容易なことではない。現設備でやるには、設備不足といっていいだろう。 教授は必要に2年で出すように言ってくる。できなければ無能な人間だと考えているのだろう。 自分は、現設備では不足点と、現状ではできて主生成物の解析までであることいった。 だが、教授は聞こうとしない。仕方ないので、すべての解析をやることになった。 不足している点は、時間と労力で補うことにした。 8時半に大学にきて、夜0時に大学を出る。そして年末年始の4日間のみの休日という生活が始まった。 それでも、思っていた以上に進捗はよくなかった。 それだけではない。研究室内の環境は著しくひどい状況になっていた。 教授は学生に指示を出す。しかし、指示する内容があまりにも適当すぎる。学生は意味も分からずやってしまったようで、事故がおこった。教授は、指示通りにやらない学生が悪いといった。自分は、そうではないでしょといったように思える。たびたび事故が起こり、このやり取りを数回やった。10月ごろ、再び事故が起こった。教授は、指示通りにやらない学生が悪いに加え、自分には責任はないと言い切った。無責任すぎると思った。このとき、怒ったことを覚えている。研究の大枠はあなたが作りなさい。細かい手順は自分が作る。一切口出すなといったと思う。これ以後、細かい手順は自分が作った。研究室内の備品の確認なども自分がやった。本当は、こんなことをやっている余裕なんてないのにね。 こんな日々が続き、体に限界が訪れていたようだ。食事を口にしても、のどに通すにもつらい日が続き、みぞおちあたりが、いつもと感覚が違うように感じた。ついには嘔吐する日が出てきた。しかし休むわけにはいかない。教授が思い描いた結果でなければ修了証認定を出さないことは、かねがね言われていたことだからだ。だからペースを落とすことなく続けた。 あるとき、入学希望者の減少が問題になった。定員割れを起こしていることが重大視された。 研究活動の方向性を話をしたと思う。教授はわが道を行くという感...

思い出話8 高校生活開始・新たな船出

高校進学して、中学と同様、いじめられ役です。粛々勉強することが主体となっていたと思います。 休み時間は、図書室の本を読んでいたと思います。このころになると、過去という世界には、目も向けなくなりましたね。  過去というものは自分が歩んできた系譜のようなもの。振り返るだけ時間無駄、何の意味もないと思っていた。  重要なのは、これから先の世界が重要だと思った。だから、必要な科目はできる限りとるようにした。   入学式が終わって数日後、入った部活はパソコン部。中学の時もパソコン部に入っていたので、この部にしました。 パソコン室はあったのですが、OSが古く、Windows3.1が入っていました。ソフトも何も入っていなくて、これでいったい何ができるのかと疑問を抱きました。これでは、自宅のパソコンのほうがいいではないかと思いました。  自宅のパソコンは、Windows2000が入っていたと思います。当時最新型です。 なので、当然事実上の帰宅部になりました。 3年に上がったころ、バドミントン部に入っている人に誘われてやってみることにしました。 なかなか面白いので、続けることにしました。フォアハンド、バックハンド、ドロップショット、スマッシュショットなど基本の型を1週間で習得。覚えが早いといわれました。 修学旅行は沖縄に行きました。秋でも30度前後あったと思います。とても暑かったです。首里城やガマを見に行った記憶があります。  最後は、沖縄戦の悲惨な話を聞きました。1時間前後だったと思うのですが、自分は寝てました。それも最前列で。冒頭にも記載したと思いますが、過去というものにまったく興味がありません。しがみつくだけみじめなだけだと思っています。なので寝てました。 卒業式後は、荷物をまとめて早々帰宅しました。当然過去に興味がないので・・・ 卒業後は大学に進学しました。化学科に進学したのは、科学者になりたいと思ったからです。 しばらくすると、部活動紹介で広場に各部が集結して紹介していました。 化学研究部を見に行きましたが、化学反応の紹介だけで、この部自体何をやっているのか全く分かりませんでした。  結局、大学4年間帰宅部になりました。 後で聞いた話ですが、化学研究部は、マー...

思い出話7 見ている世界が偽りに感じたことがありますか

小学校4年生ごろ、自分は、自分の目に映っている世界や人や物が偽りのもの、偽りの世界ではないかと感じてしまっていた。 クラスのある子が、右を向いた。自分は思った。左を向く世界、向かない世界があるはずだ。自分は、複数ある世界のうちの一つを見ているすぎないのだと。そう思ったとき、自分という存在は、無限に存在している世界に存在していて、自分はそのうちの一つの世界に存在しているだけなんだと。そしてほかの世界とは、触れることも見ることもできない。個のという存在は、唯一の存在なのだと。自分という存在はこの世界に二つと存在しない、自分は一人なのだと感じた。だから、できる限り、他人と接したら、その時間を大事しようと思った。 それでも、一人で遊ぶことは多かったと思う。一緒に遊ぶことはあっても、女の子に誘われて、遊んでいた。大体、女子5人の中の男子1人の構図。なぜそうなったかはわからないが、その子達と一緒にいてとても楽しかった。   いつの日だっただろうか。保健委員の当番で、保健室にいることになったのだが、当番で一緒だった女の子といつも一緒だった。本を見つけては、微笑みながら、自分を呼ぶ。そんな日が何度か続いたとき、「ずっと一緒にいられたら」と思ってしまったことがある。 でも自分は、その気持ちを封じたのです。自分にはもったいないと思ったから。そして高嶺の花だと思ったからです。   卒業する日。最後の日だというのに最悪な一日になりました。度が過ぎるいじめ、誹謗中傷で頭にきて、「もう二度と会うことはないのだから、お前ら気が済むだろ」のようなことを言ったと思います。 もう、これで二度と会うことはないと思った。 この世界の存在するものは、三次元座標であらわされる点でしかない。その点は、誰かが観測されなければ、それは存在しているとは言えない。自分は、観測地点から消える。そして、いつの日か、再び観測地点に現れたとしても、その存在は、同一であることは証明できない。結局、自分という存在は、観測の対象から外れる。だから、二度と会うことはないと思った。 中学に進学したとき、異なる観測地点に自分はいることになる。でも、だれも観測の対象とはならなかったようである。でも自分はそれでいいと思ってしまった。すべてにおいてあきらめてしまったのだろう。 そんな時、おさげの女...

思い出話6 近所の人との楽しい出来事

ある日、雹が降ってきた。近所の子がボウルに入れて見せに来た。ピンポン玉より一回り小さいものだった。きゃっきゃっ言いながらはしゃいだと思うのだが、具体的どうしたか覚えていない。 家は、定期的にCO-OPから食材を調達する。宅配サービスのようなものを利用していた。箱に入っているドライアイスをボウルに入れて水を加えて、よく遊んだものである。 ある日、近所の人に招かれて、庭に入ったことがある。そこには梅の木があり、梅の実がなっていた。その家の子と一緒になって、梅の実をとったことを憶えている。梅酒などにするそうだ。おじさんとおばさんは、自分らとっているのを見てにこにこしていたことを憶えている。 別のある日、おばさんに、「ちょっとおいで」みたいに手招きされ、おばさんの家にお邪魔したことがある。「ケーキがるからお食べ」と言われて、ごちそうになった。とてもおいしかったです。 いつの日かは覚えていない。近所の人たちを集って、中原公園の藤の木の下で、カレーを作って一緒に食べたことを憶えている。カレーパーティーみたいな感じでしょうか。結構にぎわっていたことは覚えている。それはこれはとても楽しかったです。

思い出話5 意外と好意に思ってくれていたのですね!

小学3年生だっただろうか、一人で遊ぶことも多く、クラスの人と遊ぶことも多くなってきた頃である。男同士で遊ぶことはほぼなく、どちらかというと、女の子と遊ぶことが多かった。たとえば、女子5人の中の男子1人みたいな構図です。ドッチボール、ケイドロ、だるまさんがころんだなどで遊んだと思います。 ある女の子が、ひな祭りをやるからうちに来てと招かれたことがあります。ひな祭りといえば女の子同士でやる行事だったと思うのですが、なぜか自分が招かれました。女の子の家に行き、その女の子に手厚くもてなしを受けたことを憶えています。自分のほかにも女子2人いました。その女の子たちと一緒に、飲食を楽しみました。ちなみに男子は自分だけ。なぜ自分が呼ばれたのか今でも理解できていません。良い男子はほかにもいるのに、自分を選ぶなんて変わった子だなと思いました。 たまに学校で一緒に遊ぶことがあるのですが、授業中に限り、ちょっとかわいそうな出来事が・・・・。 教育実習生が来たときの出来事。出席をとるのですが、名前の順で呼ぶことになっているはずが、その女の子に限り、同じ漢字の読みでももう一つの読みで呼んだのです。漢字一字だからわからなくもないのですが、名前の順番から察してほしいと誰もが思ったと思います。ちなみにこの出来事は、この一回だけにとどまらず、一日に数回必ずやるのです。教育実習終盤になってくるとさすがに覚えたのか、正しい呼び名で呼んでいましたね。その女の子にとってはとんだ災難です。

思い出話4 小学生なのにませているでしょ!はじめて好きになった人のお話し

小学2年生の後半ごろから中原公園西側の空き地が宅地開発された。秘密の遊び場にしていたのでなくなってしまったことは少し残念です。小学3年生に上がり、始業式が終わり、クラス替えがなされた。新学期初日、多分この年だと思う。一人ぽつんと座っている女の子に目に留まった。暗く、さみしそうな顔していた。自分はなぜだかわからないが、声をかけた。なんと声をかけたかは覚えていないが、少し微笑んで一緒に遊んだ。その後も自分は、一人で遊ぶことが多かったが、その女の子を中心として一緒に遊ぶことが多くなった。印象に残っているのは、「ケイドロ」や「だるまさんがころんだ」、ドッジボールで遊んだことである。その他、休憩時間を使って、その当時流行していたチョコボを使った絵を書いてその女の子を笑わせたりした。ともに行動することはあまりなかったと思うが、何年生だか覚えていないが、保健委員をやったときは、当番制で昼時間に保健室に一緒に行動することがありました。けが人が来ると、少し戸惑って動けないところがちょっとかわいいと思ったりもする。自分はけがをよくするから、何とも感じないので、傷口を洗って消毒して、ガーゼを当てて包帯で巻いて終了させたことを憶えている。 当番で一緒に行動することが何度かあったが、その女の子は、保健室内にある本を手に取り、自分を呼び、見せるのです。とても明るく、微笑みながら言うのです。保健室で一緒に行動しているうちに、なぜだか、自分の中の何かが満たされる感じがしたのを憶えている。この時思ったことは、好きになるってことはこういうことなのかなと思ったことです。でも自分はその女の子に「好きだ」とは言っていない。なぜなら、とても明るく微笑みながら話しかけてくる姿を見て、自分にはもったいない、高嶺の花だと思った。もしその花を手にしてしまったら、その美しさを失って枯れてしまうのではないかと思ってしまったからだ。 だから、ずっとその思いを伏せて友達として接することにした。今思えば、チョコボを書いて笑わせていたのは、きっとその女の子の笑顔を見たかったからだと思う。 保健委員の仕事としてインフルエンザの予防についてプレゼンすることになり、手書きのポスターを作り、1学年のクラスでプレゼンをしたの覚えている。その女の子はポスターの端を持って、自分もポスターの端を持ち見えるように掲げ、プレゼンは...

思い出話3 子供の世話というものは大変ですね!

武蔵村山市に住み始めてしばらくすると、近所の子供が「遊んで」とやってきました。女の子だったのですが、おままごとなどして遊びました。しばらくすると男の子が加わり、さらに1~2年すると双子姉妹が加わり、計4人に・・・。といったことを前回掲載しました。 結構やんちゃして欅の木に登ったりしていましたね。一番ひやひやしたことは、「蜂の巣を見つけた」といった時でしたね。見てみるとスズメバチの巣があり、自分の体ぐらい大きな巣でしたね。あの子供たちはハチの恐ろしさ知らなさすぎで、平気で近づいて逃げようともしない。すぐに離れるように言って自宅から左隣のおじさんに蜂の巣の除去をお願いしましたね。にこにこしながら承諾してもらってサクッと撤去してくるのだからすごい人です。そのあと「取れたよ」なんて見せに来るんだからたまったものではない。 右向かいの家の女の子が小学校に上がる数か月前に、自転車道の休憩所で遊ばせていて思ったことは、「そろそろこの子たちも小学校に上がるんだなあ・・・。おとなしく小学校生活を送ってくれるかなあ」という心配をしてしまいました。もはやこれでは保護者でないですか。何考えているのだろうと思いつつ、その女の子は小学校に入学する日が来ました。半年経過しても問題を起こしているような話を聞かないので、おとなしくやっているんだなあとちょっと安堵したりしました。翌年には同じ家の男の子が小学校に上がりました。この子もおとなしくやっているようなのでちょっと安堵感。さらに翌年?、左向かいの双子姉妹が小学校に入学しました。ここからが、あの子供たちの本領が発揮されるとは、だれも思わなかっただろう。右向かいの女の子は、問題を起こすことなく生活してくれていたのだが、3人は、やってくれた。男の子は、クラスの中ではしゃぎまくってもはや無法地帯化していたそうです。手に負えなくなった教員が自分のところにやってきて、「お前の班の子供なのだからお前が何とかしろ!」なんて言われて駆り出されることに…。もはやこれでは、職務放棄というのではないだろうか。この時決意をしました。「絶対に教員にはならない!」と。姉妹の方は、クラス間で入れ替わり、授業を受けるといったことをしていたようで、重大視した職員は会議を開くまでに発展。 当然のことながら、姉妹はお仕置きを受けたようで、その日の15時過ぎにやって...

思い出話2 新興住宅地にお引っ越し!新生活開始

所沢にあるマンションから武蔵村山市に引っ越ししました。新興住宅地で引っ越す前に何度か見学したものです。場所は「グリーンタウン武蔵村山」です。今は中原という地名になっているようですが、当時は岸という地名でした。番地も覚えているのですが、これを言ってしまうといろいろまずいと思うので内緒です。 引っ越してすぐにいずみ幼稚園に転園しました。一人で遊ぶことが多かったですね。特に覚えていないです。 自宅の庭には、父が、プルーンの木、松の木、梅の木、柿の木、ブルーベリーの木を植えました。実れば、梅の木は、梅干しにしてよく食べていました。プルーンの木や柿の木、ブルーベリーの木は、熟した順にとって食べていましたね。 芝生は、中原公園前にある畑の主の家からもらってきて芝生を植えました。見栄えはよかったのですが、次第に芝生が剥げてきました。その家の方からたびたび野菜をいただいていました。 次に父は、砂場を作ってくれました。遊び場がないといけないだろうということだと思うのですが、よくそこで遊んでいました。 中原公園の西側は、当時は空き地でよく秘密の遊び場として遊んでいました。どういう風に遊んでいたかは覚えていないのですが・・・。小学3年生前には、家が建って遊べなくなってしまいました。中原公園も引っ越してきた当時は公園の中央付近にコンクリート製の給水施設は無く、グラウンド、鉄棒、滑り台、砂場、藤の木の下に木製のテーブルとイスが4つ、あとしいてあげるなら、トイレとゴミ箱、水飲み場があるぐらいでした。コンクリート製の給水施設は、小学校3~4年のころにできたと思います。 しばらくして右向かいの家の子供が「遊んで」とやってきました。女の子だったのですが、よくおままごととかして遊びましたね。しばらくして同じ家の男の子が加わって二人の世話をすることに・・・・。 1~2年したら、左向かいの家の双子姉妹が加わり、計4人に・・・・。 自転車道の休憩所でよく遊びました。4人ともやんちゃして休憩所にある欅の木によじ登っていましたね。 自分が5年生ぐらいになるといっしょに遊ぶとつらくなってきて、ただ見ているだけだったり、遠くに行きそうになったり危なそうだったりしたら呼び止めたりして、まさに保護者って感じになっていましたね。 ここでの生活は、今までの中でよかっ...

思い出話1 幼き日の出来事

所沢駅近くにある市営マンションに住んでいたころ、けやき幼稚園に通っていました。幼稚園の頃の記憶はほとんど残っていないけれど、今でも覚えていることは、いくつかある。 登り棒に登ったり、鉄棒で遊んだりしていました。一度だけ、先生に怒られたことがあります。 それは、この幼稚園は2年制なのですが、1年生用と2年用とに遊び場が分かれている。それを無視して1年生用の遊び場で遊んで、集合時間に遅れて怒られたことがあります。やっちゃったってかんじです。以後2年生用で遊んでいましたが、4歳か5歳ぐらいの時に引っ越しして転園することになりました。クラスのみんなとさようならしたことを今でも覚えています。 その他覚えていることは、近所のお友達の家に遊びに行ったとき、トイレに行きたくなってトイレを借りたのですが、扉をしっかり締めてトイレを済ましたら、扉が開かない事態に!! 焦ってガチャガチャやったり叫んだりして、何とも言えない恐怖感に駆り立てられました。結局出られたのですが、叔母様に「ごめんね。扉が壊れていたのは知っていたんだけど使うのうちだけだからほっといていたの」と言われました。しばらくトラウマになり、自宅のトイレでは扉を少し開けるようにしてトイレを済ませるようにしていました。 あと覚えていることは、幼稚園から戻ってくると、いつもテレビがついていて音楽番組になっていました。輪レナ川よく覚えているなと思っているのは、その内容。おニャン子クラブが出ている番組でした。あの当時子供だったのにませていたなと思ったのは、出演している子がかわいくて座ってみてしまっていたことですね。 友達の家に行きたくて一人で出かけたのですが、階段を使わずにエレベータを使ったのです。もちろん使い方はいまいち理解していません。住んでいたのは1階で友達の家は10階あたりだったと思います。扉が閉まって下に加工していくのがわかった瞬間、冥界に連れて行かれるのかと恐怖して、ジャンプして適当な階を押しました。何とか脱出したと思って自宅に帰りました。以後親と一緒に行くようしていましたね。